正味の話、茅ヶ崎駅を降りてこの道路の名前を見て「わーお、湘
南だぜ」と思うかどうか?
私は「ぷっ」と笑ってしまうんじゃ無いかなあと密かに思っていた
りするの。
だって、そんなきらびやかな通りじゃないのよ。
普通のスーパーや小売店が立ち並ぶ小さな通り。
名前負けってこういう事を言うと思うのよ。
まあ、日々この通りを利用している私がそんな事を毎回考えてい
る訳では無いのだけれど。
「おじさん、電話で頼んでおいた本届いた?」
雄三通りに有る裏寂れた小さな本屋の、非自動ドアをくぐって、
私は顔馴染みの店主に声を掛けた。
「来てるよー」
眼鏡のおじいちゃん店主が、奥から顔を出して答える。
まーた奥でくつろいでるの、万引きされても知らないわよ。
この店の公認立ち読み客で常連客でもある私は、そんな事しないけ
どね。
「美咲ちゃん、久しぶりじゃない。立ち読み客が減るのはおじさん
には嬉しいけどね」
そう言って笑うおじさんの目は、内容に反比例して暖かい。
「いい人でも出来た?」
「単に、バイトが忙しいだけよ」
そうかそうか、とおじさんが笑いながら本を包んでくれる。
私は親の喧嘩が酷くなって家に居たたまれなくなると、ここに来
て良く立ち読みをしていた。
おじさんはうちのご近所さんで私の事を良く知っていたので、いつ
も黙認してくれていたの。
今はそこまで子供じゃないけどね、でも居心地が良くてちょくちょ
く来ていたりする。
あら、ちゃんとここに無い本まで注文してわざわざ買ってあげてた
り、売り上げにも貢献してるのよ。
じゃなかったらこんなしけた店、とっくに潰れてるんだから。
いい人は居ませんけど、自称ご主人様の高校生なら出来ましたわ
よ、と言ったらおじさん卒倒しちゃうわね。
ここに来る時間が減った事を、きっとおじさんは喜んでくれてい
るのだろうと思うの。
でもその理由はちょっと違うから、ガッカリさせちゃうでしょうね。
とても言えないわよね、なんて思いながら非自動ドアをくぐって
道路に出ると、向こうから見覚えのある二人連れがやって来た。
「あら、健二君と遼君」
「おー、美咲ちゃん」
ヒゲ顔の健二と、樹の従兄弟の遼が、高校の制服を来て歩いてる。
遼は樹と同じKO高校のブレザー、健二は見覚えの有るブレザー。
「健二君、湘南高校だったの?」
「そう、二年」
どう見ても二十歳は越えてそうな老け顔で二年生なのにも驚いた
けど、私の後輩だったのね。
ていうかヒゲ剃りなさいよ、不潔っぽいわよ。
「先輩なんだ? 」
「そうよー、大先輩」
健二がにまっと笑った。
私は店員からアイスを受け取って、健二と遼に手渡した。
大先輩奢ってコールに耐え切れず、雄三通りに有るプレンティーズ
に三人で入ったのだ。
ここは大理石で好きな具を混ぜてくれる、ちょっと変わったアイス
を置いているのよ。
それだけにお高いんだけど、樹の所のバイト代が入ったばかりだか
ら、懐が暖かいしいいかしら。
しかし男の子ってすぐ奢れ奢れって五月蝿いわよね。
でも樹は言わないわよね、それどころか、いつも財布を放り投げて
買って来いって。
万札びっちりの財布、あれは小遣いなのかしら?
それに、樹に押し切られてバイトらしき事をしているけれど、家庭
教師に七万も出すなんて、樹の家ってすごすぎよね。
「ねえ、樹の家ってお金持ち?」
「うん、そうだろうね」
遼がアイスを食べながら答える。
「うちの家系の、大地主じいさんの直系の家だし。なにより樹のお
父さんはレストラン経営してるし、お母さんはフラ教室とエステサ
ロンやってるし、お金持ちだよ」
なるほどね。
「樹って一人っ子?」
「いや」
遼君は一言で否定して、アイスに没頭して黙り込んだ。
「樹に聞けよ」
「まあ、そりゃそうなんだけど」
別に探ってるわけじゃ無いのよ。
単に今思い立っただけで。
「美咲ちゃんは家すぐなの」
「うん、ここの道路まっすぐ行った所に六軒並んでる内の、黄色い
コテ塗りの家」
「それで徒歩だったんだ」
「今の本屋さんの常連でね。昔から立ち読み客だったの」
ぷっと遼が笑って、そりゃ悪い客じゃないのと言う。
「失礼ね。ちゃんと買ってるし、立ち読みしてる時に万引き捕まえ
たりした事もあるし、役に立ってるのよ」
「すげー。怖く無かったの?」
「相手は小さい子供だったから。どついておじさんに返させて許し
てあげたけどね」
下を向いてアイスをほじっていた遼が顔を上げて、意外そうに目
を見開いて私を見た。
何よ、どついた話がまずかったかしら?
それ位しないと子供はわからないのよ。
遼は何度か瞬きをした後に、
「あはは、美咲ちゃんって案外怖えな」
と笑って、アイスに目を落として食べ出した。
プレンティーズの前で別れ際、お姉さんが一人、と遼がいきなり
言い出した。
「何の話?」
「樹の家族。もう一人、お姉さんが居るんだよ」
「そう」
私は突然の話題の転換に戸惑いながら、頷いた。
遼が拳を口に当てて、ちょっと逡巡している風に視線を道路に彷徨
わせた。
「樹はさ、何て言うか」
「うん」
何て言うか、何て言えばいいかな、と遼はしばらく考えている。
「ごめん、何でも無いや」
遼は、言いたい事がまとまらなかったのか、頭を振った。
「何でも無いなら言うな紛らわしい」
とヒゲ顔健二が横から遼を小突いた。
遼がむっとして、でもよ、と健二に何かを言いかける。
「もしかして樹はさ」
「るせー。余計な事言うなおしゃべり」
健二がもう一回遼を小突くと、遼は不承不承の体で黙った。
健二はおもむろにポケットからウォレット財布を出して、中から名
刺を一枚取り出した。
何かと思えば、『健二<ωτ〃→す☆電話Uτね』と書かれた極彩
色のプリクラ名刺。
あ、あったまわる……。
「これやるよ。俺様のナンパ用名刺だ、ありがたく思え」
「ははは……アリガト」
何が有り難いのかわからないけど、くれるって言うならとりあえ
ずもらっておくけどさ。
アンタ、この名刺出したら却ってナンパ不発だと思うのよ。
指摘してあげた方が親切かしら?
うさぎは寂しいと死んじゃうのよと俗に言われるけれど、人間は
うさぎじゃ無いから寂しくたって死にゃあしない。
ちなみに実はうさぎも寂しいからと言って死にゃあしないのだけれ
ど、この際それはどうでもいい。
人間は社会的動物であると評したのはギリシャの哲学者アリスト
テレスなのだけど、これもどうでもいい。
何故ならこの言葉の意味は、人間とは社会の役割を個々に果たすた
めに群れる動物だって事なので、人間の精神世界にまで触れている
言葉では無い。
つまり何が言いたいかってね。
便宜上の役割を果たし合っていると言う意味では人間は一人では生
きられない。
無人島に一人で暮して生きていくのがどれだけ難しいかを考えれば、
わかると思うの。
でも、精神世界だけの問題で言えば、人間は一人でも生きて行け
る。
自分の事は自分で処理すればいいだけだから、周りが絡まない分だ
け簡単なのよ。
にっこり笑っていれば、それで易々と済む問題の何と多い事よ。
人に期待せず、自分を律して、寄りかからず。
それが出来る私は選ばれた人間よとお高く止まっていればいい。
昔から私は、そういう妙な理屈をこねくって淡々と本を読んでい
るような、頭でっかちな子だった。
でも早熟なのは確かだけど、精神面は伴っていなかったのね。
だから、やっと最近気が付いた。
孤独って、孤独のままではそれと気づかないのね。
もっとましな状況を知って初めて孤独だったのだとわかるものなの
ね。
どんな形であれ、積極的に自分に関わろうとする人間が居て。
常にその誰かの事を考えさせられて、時間を取られて。
そんな中で気づかされる事がある。
私は、寂しかったのかもしれない。
認めたく無いけど、そうだったのかもしれない。
いつからか、日常に達観した気になっていた物分かりの良い美咲
ちゃんは、中庸で無難に何でもこなして来たそれなりの子だった。
人間に奇跡なんて言葉は存在しない。
こっそり泣いてても、誰も振り向いても気が付いてもくれない。
だから期待しないで、しっかり足を地面に突っ張って前を向いて歩
いておけば間違いは無い。
何故なら自分の足だけは自分を見捨てないから。
そう思っていたのに。
……いいえ、今でもそう思っているのよ。
この先もそう思い続けるわよ、あったり前じゃないの。
だって、だって。
あんなエロガキに振り回されて、好きにおもちゃにされて、それな
のについつい慰められちゃってる自分、嫌すぎよ!
樹にのめりこんだら、後でぽいってされた時に泣くのは自分なんだ
から。
冷静に、冷静に。
私はそういう出来た子なのよ。
樹の父親は漁師料理店をチェーン店で経営しているらしい。
母親はフラ教室と、アロハエステなるものをやっているとか。
アロハエステって何よと言いたくなるけれどそれは置いておき。
姉が一人居るらしいけれど、見た事は無い。
通いの家政婦さんが居て、あのモダンな豪邸を管理しているみた
い。
夕食を準備する所まで居て帰るので、時々樹が頼んでお茶を持って
来てくれる時に顔を合わせる。
玄関を開けてくれるのも家政婦の守屋さんで、私は入れてもらって
から勝手に部屋に行く流れね。
今日はいつもより三十分早く着いてしまった。
一応、六時半から八時半って建前上は決まっている。
実際は何もしていない家庭教師なのだけれど、時間は厳守する様に
心がけていた。
正直言うと、おぼっちゃま本人の命令とは言え、何もしないでお
金を頂くのはすごく気が引けるのよ。
だから辞めたいと言ってみたけど一蹴された。
そこでせめて、プリントを作るからそれ位はやってよとお願いして
持参している。
どおおおして、家庭教師が生徒にお願いしないとならないのか疑問
なんだけど。
毎回しょうがねえなって顔で渡されて、私がお礼を言うのは何か間
違っていると思うのよ。
やっぱり、樹はすごく出来る子だと思う。
最初は学年の並問題を渡してやらせていたんだけど、余りにもあっ
さりと解いて寄越すので近頃は入試問題を用意している。
国語も漢文も古文も英語も、全部楽々と解いて返される。
ただし、樹はいわゆる勉強はそんなにしていないのだと思う。
解答を見ればわかる。
勉強には必ず形式が存在していて、それは英語も国語も一緒。
Aと聞けばBの書き方でCと答える、と言ったお約束の解法が有る。
樹の解答は、採点する時に点数に迷う「別解答」に当たる答え方が
結構多いの。
間違いでは無いけれど、お約束は踏襲していないのでどこに点を付
けるか迷う解答。
つまりね、あの子は自分の持ってる知識を使ったり、一の状態か
ら解答を編み出して十近くに持って行く方法で解いている。
だから満点にはならないけどね。
何が言いたいのかって言うと。
多分なんだけど。
樹はもしかしたらとても地頭の良い子なのかもしれない。
分かり易く言うと、俗に言うIQが高いんじゃないかな。
天才までは言い過ぎでも、一般人よりはずっといいエンジンを積ん
で生まれているんじゃないかと思われる。
やっぱりおかしいわよ、この子。
どうして頭の悪い天使ちゃんを装う必要が有るのよ。
マニア向けか?
外で待つのも嫌なので守屋さんに上げてもらったら樹は居ない。
家の中を勝手にうろうろするのも嫌なので、部屋で待っている事に
して床に座って持参の雑誌を開いた。
自分の名誉の為にこれだけは言っておくけどね。
私は主が居ない時に人の部屋を探ったりはしないわよ。
でも、ふっと目を上げたら、机の上のパソコンが立ち上げっぱな
しだったの。
その画面がね、おおっとな画面で困っちゃったわけよ。
おおっとはおおっとよ。
無修正画像のおおっとなサイトよ。
頭隠して尻隠さずだろうと文字通り突っ込みたくなったんだけど、
顔には黒い線が入っているけど、他はモロ出し。
女性が男性とあんな事やらこんな事をしているミニ動画がずらっと
並んでいる。
で、その下に、源氏名でいいのかしら、簡単な名前が書いてあって
プロフィールがちょこっと乗っている。
しょうがないわね、樹ったら、やっぱり高校生の男の子なのねえ。
健全っちゃ健全なんだけどさ。
家政婦さんは勝手に入らないし、だから安心して放置していたんだ
ろうから仕方無いけど。
これがずっとあんあんと動くのは目のやり場に困るわよね。
せめてパソコンを休眠モードにしておくかと思って、私は立ち上
がって机に近づいた。
そして、パソコンの前に用紙が何枚か置いてあるのに気がついた。
ここまでもあくまで自分の名誉の為に言っておくけど、ってそれ
はもういいって?
目の端に、気になる文字を見つけてしまったのよ。
『吉田都』
どこかで聞いた名前が記載されていて、その横に何かの数字が書
いてあった。
そして、上下に名前が並んでいて、その横にも金額や何かの記号。
(何これ)
不審に思いつつパソコンに手を伸ばそうとした私の手が止まる。
正視するのはちょっと恥ずかしい過激な動画の一つの下に『MIYA
KO』って名前の子が居る。
若そうな、ストレートロングの女の子。
まさかこの子が吉田都とは限らないけどね、と思いつつそのまま他
にざっと目を流して、見覚えの有る女性を見つけてしまったのよ。
ウェーブのかかったセミロング、ちょっとふっくらした色っぽい
体付きの、恐らく二十代の女性。
下には『SAYO』って書いてある。
顔に黒い線が入ってて、確信は持てないけど。
(この人この間の先生に……似てる?)
リストに目を落とすと、『瀬谷小夜子』って人が居る。
これって偶然?
「早いね」
背後で声がして、私はぎくりと固まった。
振り返ると、樹が入り口に立っている。
さすがに守屋さんが居るからか下着だけは着ているんだけど、後は
全身裸でタオルを肩に掛けている。
多分、海に入って来てシャワーを浴びていたんだろうと思う。
樹は私と机の上を目線で一往復させて、それからくすっと笑った。
「何やらしいサイトに見入っちゃってんの」
「ちがっ、違うわよ。余りに過激でびっくりして、消そうと思って
た所なんだから」
今、目では見ていたけど、用紙には触れていなかった。
私がじろじろと見ていた事に気がついたかしら。
「あのねえ。興味が有るお年頃だろうけど、こういうサイトは大人
が見るものよ」
私は樹に向き直りながら、説教口調をあえて作った。
「青少年は見ちゃ駄目よ」
「ごめんなさいお姉さん」
わざとらしい位善良な申し訳無さそうな顔を作って、樹がゆっく
りと私の方に近寄って来る。
「じゃあ、興味の有るお年頃としてはどうするのがいいですか?」
にっこりと天使の顔で樹が無邪気に笑って、私の両脇に手をつい
た。
こら、あんたくっつくんじゃないわよ。
私は渋面を作って、上半身だけでもと後ろに逃げる。
「教えてくれますか? 美咲お姉さん」
「その気持ち悪い演技はやめてよね」
あー、気色悪いわ。
こいつの本性を知ってしまったら、使用前の樹なんて出されるとお
えって感じよね。
「あそ? 美咲はこっちが好きだと思ってたんだけど」
ぺろっと樹は上唇を舐めた。
「ひどく扱われるのが快感になった?」
「馬鹿じゃないの」
樹がタオルを肩から抜いて、そのまま私の腰に両手を回した。
「美咲は手癖が悪いな」
「あんたがエロサイトつけっ放しにするのが悪いんでしょ」
エロサイトを強調しながら、私はぷいっと横を向いた。
こいつ、さりげなくタオルでさっきのリストみたいなのを隠した。
見られたら困る物だったんだ。
樹が私の顎を掴んで上向かせた。
くすくす、と柔らかそうな唇が笑みを履いて、綺麗に並んだ歯が
隙間から覗いた。
今度はゆっくりと上唇をぺろりと舐めて、樹はアーモンド型の目を、
すうっと細めて凄みの有る目つきで笑った。
「あー、どきどきしちゃうね。こういうの」
「は?」
「手癖の悪い子にはお仕置き、ってシチュエーション? 男の夢だ
ねっ」
あ、あ、あ、あほかあああああー!
お前の夢なんて知った事か、この変態王子!
「どうすっかな。美咲がもう許してーって泣きそうな事を色々考え
てるんだけど、俺迷いすぎ。どれにするか選ばせる?」
「どれもお断りだから」
「口答えしたから、もう聞いてやんねー馬鹿女」
あー、すっげ興奮するなあー、と樹が風呂上りのほかほかの体を
くっつけて来る。
興奮してるのはもう分かったから、何か育ったのが腰に当たってる
から!
でも逃げられない、後ろは机。
ちょっとアンタ、手をスカートに入れるのはやめてよ。
樹がうなじをはむはむと唇で挟みながら、迷う迷うとぶつぶつ言っ
ている。
勝手に迷ってろ!
「今日はご主人様と呼んで、敬語口調でお願いするように」
「嫌だってば」
「はい失点一。五点貯まるとステキな特典が待ってるよん」
何の特典よ!
と脳内での突っ込みとは裏腹に、樹が片足を抱え上げて、いきな
りそこかと言いたくなる辺りで、手が色々といい仕事をしているも
のだから。
ちょっと立ってられなくなりそうよ、も、駄目。
あっちに移りたい。
「いつ……」
「ご主人様と言え」
この……この変態王子!
樹が顔を上げて、ちゅっと唇を吸い上げて。
「安心しろよ。そこに愛はあるのが基本だから」
基本?
「下僕の嫌がる顔を見て喜ぶのが主人の愛なんだよ、深いだ
ろー?」
んー、って樹が唇を合わせて、さー、今日は多目に泣いてもらう
かなと嬉しそうにニヤニヤして、そのまま体を抱え上げた。
いやー、誰かっ、誰か助けてーっ。
ここに天使の顔をした変質者が居るんです、犯されちゃうー!
前言撤回。
こいつは下半身で物を考えて居るに違いない。
だから普段は脳みそに栄養が行かなくて使用前の状態なのよ!