その子の第一印象は「犬っぽい」だった。
くっきりとした太眉、さらさらの太そうな直毛の髪、そして眉毛の
下の、黒目がちな瞳は穏やかそう。
ちょっと年を取ったおじいちゃん犬みたいねと、犬好きの私はそう
思ったわね。
うちの事務所で、夜間の受付のバイトを募集していたのよ。
性別はどちらでも可、ただ、女性のお客さんも多いし外見で引かれ
そうなタイプは困ると思っていたのだけれど。
面接に来た大学三年生のその子は一発で採用された。
人に警戒心を抱かせ無さそうなおとなしそうな地味そうな、更には
遅刻なんて絶対にしなさそうな真面目な雰囲気がとても良かったの
でしょうね。
三年生だから二年は続きそうでしょう、長期採用も期待出来るから
そこも社長の気に入った点みたい。
初めて告白された時は、びっくりしたわね。
三人兄弟の次男だって言う明日見甲斐(あすみかい)は、見るから
に純情そうで、その手の分野は苦手に見えたから。
残業で遅くなって、駅に送ってもらう途中の出来事だった。
「付き合って下さい」
普段は伏せていることが多くて、きょろっとしてて可愛いのに勿
体無いと周りにからかわれているその目をまっすぐ私に向けて、甲
斐はそう言った。
はっきりと断ったら可哀想かなって思ったのよ。
おじいちゃん犬って切ないじゃない、何となく寂しそうって言うか、
哀しそうって言うか、つい優しくしてあげたくなるじゃない。
寄って来られたらつっぱねられないわよね。
だから、いきなりは無理だけど、様子を見て前向きに考えるって意
味の解らない答えを返してしまったのね。
……友達以上恋人未満……?
ちょうど彼氏も居ないし、遊ぶ相手くらいならいいかなって思っ
たの。
それで好きになったら付き合えばいいしって、そんな程度。
おかしく無いよね?
その後、甲斐から誘われたり私から誘ったりして、休日に遊んで
みたけど。
やっぱりなー、人懐っこいし礼儀正しいし感じはいい子だけど、ち
ょっと男には見られないかなー。
悪いけど物足りないわよね、それだけの男なんて。
でも、甲斐はちょっと可愛いかなあなんて思っていたりもする。
冗談で腕に飛びついたら、わわ、って目をくるくるさせてびっくり
している所なんて、母性本能やS心をくすぐられるのよね。
他の男子社員と話してると、ちらっと気遣わしげにこっちを見るの
も、懐かれてるっていい気分だったり。
典型的なかわゆい後輩タイプなのよね、うーん、どうしよう。
お試し期間も終わりに近づいて、そんな迷いが私の中によぎって
いたのよね。
付き合えないなら、ちゃんと言った方がいいじゃない。
「関屋さん、まだ残っていたんですか」
「うん、社長から鍵を預かったから。もうちょっとで終わり」
制服を着替えて帰る所だったらしい甲斐が、見咎めて私に声を掛
けて来た。
「危ないですよ」
「大丈夫よ、ビルの守衛さんは残ってるし」
「じゃあ、俺待ってます」
いいのに、そんなの。
駅まで明るい道だし、うちの事務所は誰も居ないけど、他のテナン
トさんは残ってるだろうし。
そう思ったけど、甲斐はもう決めたみたいで、雑誌を取り出して
横で座って読み始めた。
(関屋さん、ねー)
萎えるわね、やっぱり。
礼儀正しい甲斐は、私を苗字で呼んで敬語を崩さない。
いきなりタメ語になられてもびっくりするけどね、もうちょっと軟
化した態度をとっても良さそうなものよね。
横目でタウン誌に目を落としてる甲斐をじーっと観察。
顔は、まあ、及第点。
特別美形ってレベルじゃあ無いけど、ここが駄目ってのも無い。
にっこり笑うと八重歯がちらっと見えて、そこは可愛い。
体も、まあよかろう。
小さくも無く特別大きくも無く、中肉中背。
全部が無難な甲斐。
性格、大変よろしい。
善良そうで穏やかで間違いは無い、浮気もしなさそう。
だけどそれだけ。
セックスアピールがどこにも無いのよ、それが大問題。
観察している内についつい肘をついてジロジロ見ていたみたいね、
甲斐は居心地が悪くなったみたいだ。
微妙に困ったような顔で俯いてページをめくるのがまた、おじいち
ゃん犬っぽいのよ。
(ふふふ、照れてるな)
まさか甲斐ったら、童貞君かしら。
実は疑ってはいるのよね、何回遊んでも手も出して来やしないし。
結婚まではいけませんとか言いそうだわ。
そこで悪戯心を起こしただけよ、決して飢えていたわけじゃない
のよ。
そりゃあ前の彼氏と別れて以来ご無沙汰よ、でもバイトの年下君に
手を出すほど困っちゃいないのよ!
あくまでただ、甲斐の反応が面白くて、残業に飽き飽きしてて、
からかっちゃおうかなって思っただけだからね。
ここ強調。
ただ、ちょっと迂闊だったのは否めないわね。
後で反省したわよええ。
さりげなく、肘をつきながら右足を組んでみる。
スーツのスカートがめくれて、ちらっと太ももが覗いた。
一瞬甲斐の目が、伏せたままの状態で揺れた。
甲斐はそのまま、何でも無さそうな顔で雑誌に没頭してる様に見え
るけど、絶対見そうになってたわよね。
(意識してる、意識してる)
あー、おかしい。
甲斐ってほんっと苛めたくなる愛すべき後輩君よね。
ちょっと楽しくなった私は、さて、残りをやるかとデスクに向か
おうとして、手元に無いサンプルが必要だって事に気がついた。
後はあれを参照して番号を入れるだけなのよね。
クロスとタイルのサンプルファイル、全部持って来たいわね。
ちょっと重いのよあれ、甲斐にも手伝ってもらおうかしら。
「わかりました」
甲斐はにこやかにそう答えて、雑誌を閉ざして置いた。
「俺全部持つから、いいっすよ」
甲斐がそう言って、横の空きデスクに山積みにしたサンプルファ
イルを示した。
「甲斐君が居てくれて助かったかも」
「こんなので良ければいつでも言ってください」
甲斐が八重歯を見せてにっこりと笑って、私に背中を向けた。
一番下のファイルに手をかけようと体を屈めた甲斐の無防備なお尻
を見て、ついつい悪戯心がわきわきしたのよね。
「ぺろっ」
「ひゃっ!」
甲斐がぴょこんと跳ね上がって、底から傾いたファイルの山が、
どどどと崩れた。
「何するんスか!」
「いやー、いいお尻だなあと」
「やめて下さいよー」
撫でられたジーンズのお尻を押さえながら、甲斐が私を向いて抗
議した。
闇の中で甲斐が真っ赤になっているのが見受けられて、私はすっか
りおかしくなってしまった。
(いやー、純情で可愛い反応だわ)
新鮮新鮮。
ケツ撫でられた程度でこの反応。
エロオヤジ気分の私は、にんまりと笑って甲斐ににじり寄った。
「ケツの一個や二個で、ガタガタ言ってんじゃねえぜオラオラ」
「関屋さん……怖いです、そのキャラ」
困った眉の下の甲斐の黒目を見てると、ますます苛めたくなるの
が不思議だわ。
私ってSっ気が有ったのかしらねえ。
寝ている犬のゴムパッキンをぐいぐいして、嫌な顔をさせて喜ぶ心
理に似てる?
窓際に置かれた一時置き用のテーブルに、後ろに反り返った甲斐
の上半身だけが逃げて行く。
私はじわじわと追い詰めてにじり寄って、甲斐を見上げてやった。
甲斐は私とテーブルに挟まれて、後ろを見て、それから私を向いた。
「甲斐君、困ってる」
「困ります、こんな所で誤解されます」
「誰も居ないじゃない、二人っきりー」
甲斐が目を逸らして、だからこそ困るんですけど、と小声で呟い
た。
「意識しちゃうー? きゃー」
「やめましょうよもう」
甲斐がますます困った眉になって、あさっての方向を見ている。
ああー、楽しい、楽しくてしょうがない。
甲斐の胸にぴたっとくっついて、腕を伸ばして私は甲斐の前髪をさ
らっと横に流した。
「私ってそんなに魅力無い? 好きって言った割にはいつも避けら
れてない?」
「そんな事無いです」
甲斐は下をちらっと見て、慌ててまた目を逸らした。
ん、ああちょっと谷間が見えちゃった?
「いっつも関屋さんだし、たまには真琴って呼んでみてよ」
「勘弁してくださいよー」
「ホレホレ言ってみ? こっち見てよ」
重ねて言っておくけど。
私は別に飢えてたわけじゃないのよ、そろそろ許してやろうかと思
っていたのよ。
その気も無いのにからかっちゃいかんなあと良く考えたらね、思っ
たしね。
甲斐が泣き出す前に勘弁してやろうかと、私は体を起こして笑い
をこらえながら締めに入ろうとして。
「くすくす、私相手にはムラムラもしないって事ねー」
「それは、します」
私の言葉に間髪を入れず、甲斐がきっぱりと答える。
「今もしてます」
「え」
甲斐が私の目をじっと見て、瞬きを二回。
「真琴さんに、キスしたいです」
「え」
馬鹿みたいに口をぽかーんとさせたまま繰り返した私に、甲斐の
顔が降りてきた。
(え)
そろそろ、なーんて冗談っ、ってさっと交わすはずだったのよ。
甲斐って、告白して来た時もそうだったけど。
一旦動き出すと、素早いみたいね。
俯いて、よしって言って、それから顔を上げた時には目をまっすぐ
見て「好きです」って口にしてたわよね。
今もそう。
私がいいとも嫌とも言わない内に、事態はあっと言う間に進んでし
まった、甲斐はその時間を与えてくれなかった。
ならこんな所でやらかすなと私は言いたい。
「すいません。でももう止まらないし」
ほんとすいませんと、甲斐は謝るが。
謝るならやめなさいと、それも言いたい。
「でも嫌がって無いですよね」
遠慮がちに、しかし甲斐はそう決め付けて、真琴さん気持ち良さ
そうです、と私の額に唇で軽く触れた。
少しだけ息を上げながら、好きです大事にします、と甲斐は私の
耳に照れた様に囁くが。
大事にすると言いながらもう始まってるだろうと、それも言いたい。
「おっ、おっ、おとなしそうな顔してっ」
「そうですね」
甲斐がはー、とため息をついた。
「ほんとそうっすね。だから真琴さんに好きになってもらえるよう
に、もっと頑張ります」
(待て待て待てーっ)
オフィスの片隅の資料コーナーで、テーブルに人を乗せて襲って、
すでに始めてるお前のどこがおとなしい!?
日本語の使い方を間違えてると思うのよ、それは。
「真琴さん、声大きいなー」
甲斐がおじいちゃん犬の顔をしながら、首を振った。
それから指がするっと口に入って来て、もうちょっと激しくしても
いいですか、と甲斐が遠慮がちに言うのだけど。
してない、あんた全然遠慮してないから。
言動不一致もいいとこだから。
今日も真面目に十五分前には着替えて到着しタイムカードを打っ
ている甲斐の指には、はっきりとそれとわかる紫の痣が出来ていた。
ぎくっと作業の手を止める私。
(……私が悪いんじゃないからね)
甲斐はあー、と指に視線をやって苦笑した。
「うちの犬が、ふざけて噛んだんです」
「いやー、痛そう。ちゃんと叱った?」
「言えないっす」
「明日見君、そういうの言えなさそうよね」
「ほんとほんと」
きゃはははは、と歓談して笑う同僚に囲まれて、頭一つ飛び出た
甲斐は、小さくなって困った顔で頭を掻いた。
(誰が犬だ)
くっそー、と書類を目の前に掲げて、仕上がりをチェックするふ
りをしながら甲斐をじろっと睨むと、奴は慌てた風情で目を逸らし
た。
さも、困ったみたいに、尻尾を踏まれたワンコみたいに哀しそうに
見える甲斐。
(もう騙されないわよ)
穏やかそうな、おとなしそうな甲斐が、まさかあんな豹変をする
とは誰も思うまい。
おじいちゃん犬の皮を被った狼よ、狼。
だって、真琴さんが余りにも色っぽかったから、とは行為後の甲
斐の言い草だけど、何よ私のせいなの?
それはだから、甲斐が。
思ったよりもいいモノをお持ちなものだから。
セックスアピールってのは、ひととおり試してみないとわからない、
こいつも思ったよりは悪く無いとちょっとスケベ心が射抜かれたの
は認めるけど。
「おはようございます」
後ろを横切りながら、甲斐が私に一言。
お、おはようともごもごと答えながら、私は思い出してドキドキし
ていただけに、自分の顔が瞬間で沸騰するのがわかった。
書類の隙間から、甲斐が一回振り返って、穏やかに八重歯を見せ
る。
目が合って私は更に顔が火照るのを感じた。
翻弄して遊んだり、サインを送ってからかったり、その密かな楽
しみは私の物だった筈なのに。
(悔しいーっ)
自業自得だとはとても思えずに、私は書類に顔を隠して歯噛みし
た。
読まなくても困らないあとがき。
夏祭りリクエストBBSよりネタを頂きました。
―抜粋―
加納みたいに普段マジメっぽいおだやかっぽい男子が
好きな女の子にむらむらーで我慢できないー、という豹変・・
――――
Mさん、ありがとうございました。
豹変?ムラムラ?そりゃあやっちま(以下略)(←単純)
明日見甲斐には、恭介、大地という名前の兄弟がおります。
大地と恭介は性格が決まってますが、このリク短編で、甲斐の
性格も決まりました。
読んでくださったかた、ありがとうございました。
2006.0823hana拝