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リセット1

 すべてを、リセットしてみよう。
そこから考える、考えて。

 それが幻じゃ無かったら。





 物心付いた時の最初の記憶は、追いかけてる自分。
泣きながら必死になって、誰かの背中を追いかけてる。
姿形はおぼろげでも、相手が誰かはわかっている。

 明日見恭介(あすみきょうすけ)。

 お隣さんで、明日見三兄弟の長男で、そして。

 ずっと私の大好きな恭ちゃんだった。





 母が、じゃあ行って来るわね、とバッグを傍らに置いてサンダル
のストラップを留めながら。

「夜には帰るからね」
「いいわよ、折角の同窓会なんだからゆっくりして来なさいよ。お
父さんのご飯は私が用意するから大丈夫よ」

 後ろで壁に寄りかかりながら私がそう言うと、母は黙って振り返
って、まじまじと私の顔を見た。

「何」
「ううん。あんたってつくづく、この四年で一気にしっかりしたな
って感心したのよ。前は炊飯器の使い方だってまともに知らなかっ
たのにね」

 母のもっともな言葉に私は苦笑した。
確かに、四年前の私はてんで甘ったれで子供だったから、母がもう
何度目にもなるその言葉を口にしたくなるのも無理は無い。
大学入学を機に家を出て、この四年で、私は沢山の事を学んだ。

「あんたを出す時は心配したものだけど、可愛い子には旅をさせよ
って言うのは本当ね」

 母はおどけてそう感心して、立ち上がった。
今だからそんな顔が出来るけれど、一人娘の私を、遠く離れた土地
の大学にやるのは大反対した母だ。

「行ってらっしゃい」

 私は母の背中に声を掛けて、自分も支度をする為に、階段を上っ
て自室に向かった。





 スモック姿で座り込んで、仲良しのまおちゃんが小声でナイショ
話を持ちかけた。

「ねえねえ、あたしねえ。しょうたくんにチョコあげようかなあ」

 年長さんにもなると、おませな子はバレンタインにチョコを上げ
たりもらったりする様になる。
人気が有るのは、ちょっと優しいタイプの子だった気がする。
乱暴だったり、元気すぎる子は女の子受けは良くなかった。

 でも私はどちらのタイプかどうか関係無しに、同じクラスの子に
興味は無かった。

「あたしはねえ、きょうちゃんにあげるー」

 と私は高々と宣言したものだった。
私にはその選択肢しか考えられなかったから。

 八つ上の恭介、四つ上の甲斐、一つ上の大地。
明日見家の三兄弟の下二人には義理チョコ、そして恭介にはちゃー
んと手作りした本命チョコを上げるのが、幼稚園に入ってからの私
の毎年の決まりごとだった。

 幼いながらも、好きな人に愛を告白する日だって知っていたから、
本人は大真面目。
甲斐と大地は、まだ一緒に遊ぶ年齢だったのでまだしも、恭介に本
気で相手にしてもらえる筈も無かったけど、それに気が付くにはも
う少しの時間が必要だった。

「おいおい、これで腹壊したらどうしてくれるんだよ」

 と、憎たらしい事を言いながら受け取ってくれて、頭を撫でてく
れて、必ず飴のお返しをくれた。
だから自分はちゃんと恭介君のカノジョにしてもらっていると、ご
満悦だったのだ。

 それが幼い勘違いだったと気が付くのは、二年後。
小学校二年生になっていた私は、高校生だった恭介が、彼女を連れ
て歩いているのを何度も目撃して、ようやく思い知った。

 恭介は、自分を異性だと見てくれてはいなかったのだと。

 最初の失恋はその時。
一晩泣いて、すっぱり諦める事にした。

 何故って、八歳の年齢差を埋める手立ては無かったから、どうし
ようも出来なかったから。
体だけは立派に大人になりかけてる高校生に対して、こちらは低学
年の子供。
何をどう背伸びしたって仕方が無い。

 そして、恭介が次々と彼女を替える事に気が付いたから。

 恭介は女の子に冷淡で、そのせいで付き合いが長続きした試しは
無かった。
背がすらりと高くて、顔立ちもそこそこで、地元でもハイレベルな
男子校に通っていた恭介はもてたけれど、長く保って三ヶ月程度し
か、同じ子と付き合わない。

 だから恭介の側にずっと居られる自分はそれだけでも特別なんだ
って、そう思う事で自分を納得させたのだった。





 バーベキューをすると聞いていたので、活動的で汚れても構わな
い、膝丈のAラインのデニムスカートに濃い色のカットソーにしよ
うと決めた。
余りに気合を入れてセクシャルな格好も狙いすぎに思うし、かとい
ってTシャツもどうかと思って。

 メイクはやりすぎず、かと言って幼く見えるのは嫌だから、アイ
ラインはペンシルできちんと引いて、マスカラも付ける。
口紅は濃すぎないピンクベージュで。
鏡を覗き込んで、髪をざっと整える。
大き目のシャークコームで、デジタルパーマをかけた髪を一巻きさ
せて、後れ毛を残しながらふわっとまとめた。

 もう一度鏡を覗き込んで、やりすぎてない、かと言って幼すぎも
しない、適度な演出を施したと満足する。

 この気合の入れ方こそが、明らかに子供なのだと自嘲。
自分が緊張しているのを、認めないわけには行かなかった。

 徒歩二十秒程度の隣家のインターホンを押しながら、指先が冷え
ているのを感じて、情け無くなった。

『はい』

 ぷつっと言う音の後に機械から発せられたバリトンに、一瞬喉が
干上がったような感覚を覚える。
機械越しでも間違える筈は無い、懐かしい恭ちゃんの声。





 二回目の失恋は、中学校入学の時。
私は一年生、恭ちゃんは大学生、まだまだ差は有る同士。

「恭ちゃんが好きなんだよ」と勇気を出して言ったら「俺も好きだ
よ」って軽く返された。
「そうじゃなくて、真剣に」と私が心を籠めてもう一度告白すると、
そこで恭ちゃんは意地悪な顔つきになって。

「せめて胸くらい出てから言えよ。最低Dカップは欲しいよな」

 と、セクハラ紛いの条件を出して、さくっと断って来た。

 当時未発達期で、身長も体重も小学生並にしか無く、カップどこ
ろかブラさえまともに必要無かった私は敢え無く撃沈。

 今思うと、余りにも酷い言い草であったにも関わらず、私は胸が
大きくなると信じて、毎日牛乳を飲み続けると言ういじらしい努力
を当面続けたのだった。





 招き入れられて、リビングへ続く南北に走る廊下を私は懐かしい
背中に付いて進んだ。
昔は見上げていた背中も、今は正面にする事が出来る。
中学に入った時、私の身長は140cmしか無かった。
高校入学までほとんど伸びず、後半になってぐんぐんと育ち始め、
大学時代に至るまで怒涛の追い上げを続けた私の身長は、今や166c
mになっていた。

 最後に会った四年前よりも、多分8cm程伸びていると思う。
その8cmで、こんなに視界が違うとは思わなかった。
視界が変わった様に、私が彼を想う気持ちも変わったのだろうか。
それならそれで、構わないと思っていた。
それも有る意味一つのリセットだから。

 どういう形でもいいから、私はリセットをしたかった。
ずっと胸の奥を占領し続けていたこの気持ちを。

「久しぶり、彩」

 黙って私を中に招き入れて、それからすっと背中を向けたきり口
を利かなかった恭介が、お茶の入ったピッチャーを片手に初めて私
を向いた。

「大きくなったね。もうチビスケだなんて呼べないなー。俺がおじ
さんになる筈だよ」

 恭介は人当たりの良い笑顔で微笑んで、グラスに麦茶を注いだ。

「おめでとう、就職決まったんだって? やっと一人娘が帰って来
るっておじさん達喜んでいたよ。何かお祝いをしないとな。欲しい
物有る?」

 柔和にそう問いかける顔は、お隣に住む「年上の優しいお兄さ
ん」のイメージそのままだ。

 コンタクトを好まない恭介は、相変わらず冷たそうな縁無しの眼
鏡を、すっと通った鼻梁の付け根に乗せている。
最後に会った時には二十六でとうに成長期を過ぎていたから、当然
ながら背も変わらない。
少し細身で長身の恭介は、カジュアルシャツを無造作に羽織ってい
るだけでもさまになる。
柔らかそうな髪を、前髪だけざっとセットして上げているのが、昔
と違う点だろうか。

「親父達は食材の買出しに行ってるんだ。少し待たせて悪いね」

 恭介はそう申し訳無さそうに謝って、革張りのソファを顎で指し
て、私に座る様に促した。

(なるほど、そう来るか)

 私は醒めた気持ちで恭介の、わざとらしい演技をじろじろと観察
する。
だって透明のレンズの奥の恭介の切れ長の目は、言葉とは裏腹に少
しも笑っていない。
口調だけはあくまで丁重で優しげだけど、私を他人を見るみたいに
冷淡に目に入れている。
そしてそれを隠そうともしていないのね。

 まだ根に持っているのだろうか。

 それで私が、落胆するとでも思ったのかしら。
びくびくと小動物みたいに、顔色を伺うとでも?
四年も経っているのに、まだ怒っているの?
三十にもなるのに大人げ無いわねえ。

 少しだけ悲しくなりそうな自分を奮い立たせようと、そう心の中
で私は強気に開き直ろうとした。

 麦茶が入ったグラスを、私の前のローテーブルに身を屈めて恭介
が置いた。
その手首におずおずと指先で触れると、恭介が間を置いて、ゆっく
り顔を上げた。

「何?」
「……恭ちゃん、よそよそしくない……?」

 上目遣いに、恭介の目を見て、私はそう問いかけた。

「他人行儀にしないでよ」
「他人だろ」
「冷たい……」

 恨めしげに口を尖らせると、しばらく黙って私を見下ろしていた
恭介が、口角を片方だけ上げてくすりと笑った。
人を小馬鹿にした様な、あんた何様? と言いたくなる偉そうな笑
い方。
でも魅力的な、どうしても見惚れてしまう表情。

「これでも精一杯気を遣ってるつもりなんだけど。彩と気まずくな
ったら何かと不便だし。ね、お隣さん?」

 ぎし、とソファーが、容量オーバーの過酷な扱いに抗議のきしみ
を上げた。
恭介は私の座るソファの肘掛に腰を軽く置いて、腕を私の後ろの背
もたれに乗せる。
ソファに預けた腕に顔を埋める様にして、恭介はソファにじっと固
まったままの私を上から覗き込んだ。

 息がかかる程近くに有る、腕の間から覗く、恭介の顔。
私と恭介だけの小さな空間が腕とソファの間に出来上がって、私は
逃げられない状態のまま、恭介と正面から対峙する事になった。

 私は正視に堪えられなくなって、面をそっと伏せた。

(ああ、駄目。やっぱり)

 恭介がまだ好きみたいだと、改めて認識。

 リセット失敗。

 色んな男と付き合ったのに、それなりにいいと思える相手も居た
のに。
まだ、恭ちゃんに見られただけで竦む自分が居る。
親の誘いを受けてここに戻って来るのは、やめておけば良かったか
もしれない。
全然自分が変わって居ないと知っていたら、そうしたのに。

「……ああ」

 恭介が低い声で小さく呟いて、後れ毛を掬い取った。
ゆっくりと顔を降ろして、恭介は鼻先に押し当てる。

「生意気に香水なんて使う様になったんだな、彩」
「……だって、もう」

 額の真上で、恭介の顎がいまにもくっつきそうだ。
恭介の和風の一重の目がその更に上から、私を見下ろしている。

「だって、何」

 恭介は、言葉を切った私に先を促した。
前髪に恭介の息がかかる。

「もう二十二よ恭ちゃん。私もちょっとは大人になったから、香水
位付けるわよ」
「なるほど大人にね」

 大人、の所を恭介は強調して、オウム返しに。

「自分で主張したがる大人は、大人って言わないけどね」

 生暖かい息が額にかかって、ゆっくりと鼻を、辿って降りて来た。
伏せたままの私の目のまん前まで来て、恭介の唇は止まった。
ふーっと恭介の息が、瞼にかかる。

「緊張してる。もしかして、俺を意識してる?」

 くすくすっと恭介が笑うのに合わせて、何度も息が掛かって、私
はぱちぱち瞬きをした。

「やっぱりしてるんだ」

 顔を伏せたまま、段々と私の顔が赤くなって行くのを恭介は楽し
そうにしばらく黙って眺めていた。
後もう少し動いたら、唇が重なる、その位置で。
わざとプレッシャーを掛けて、恭介は私の反応を楽しんでいる。

「忘れたのかよ」

 囁くように掠れた声を発して、視界一杯に広がった恭介の唇が、
目の前で閉じたり開いたりした。

「お前は、欄外だって、教えてやっただろ」

 言葉を切って、あの時と同じ冷たい言葉を恭介が、寸分たがわず
再現した。
私を傷つける目的の、それだけの言葉。

 どうして、四年も経っているのに、まだ言われないとならないの
だろう。
そこまでの何を、私がしたと?

――プチン

 変わらない恭介の容赦ない態度に、私の中で何かが弾けた。
本当に唐突にそれはやってきたみたいにその時は感じたけれど、そ
うじゃなくて。
後から思えば、溜まりに溜まった物が、出口を求めて渦巻いていて、
そのドアを恭ちゃんが開けたのだと、そう認識している。

「……冗談じゃないわよ」

 言うなり私は、腕を伸ばして。
恭介の首に腕を巻きつけて全体重を掛けた。

 私の上に覆いかぶさるバランスの悪い形で中腰になっていた恭介
は、あっさり引き寄せられて、ソファの私の上にどさりと倒れ込ん
だ。





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