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第三章 零れる想い 3

 集合時間が遅かった事もあり、ひとしきり歓談を終えてガブリ
エーレの部屋を辞す頃には、夜も更けていた。

「明日すぐ帰らないといけないのは、ミラノコレクションの準備も
あるんだけど。パパロッシの体調が悪くてね。気が弱ってるから、
放って置けなくてね」
「ロッシ会長どこかお悪いんですか?」
「病気と言うか……もう高齢だからね。そろそろ引退を考えている
みたいなんだけど、残されるのが金の亡者のバカ息子共だからね。
何とか思い留まって欲しい所だよ」

 顎髭を撫でながら、ガブリエーレがしかめっ面を作った。
創始者の息子に当たる現会長は、古き良きディセーニョを大切にす
る主義で、ガブリエーレとは志を同じくしている。
会長の二人の息子は、父親の古いやり方に反対しており、もっと現
代的なやり方でディセーニョを大きくするべきだと主張している。

「あいつら目を離すと、ろくな事しないからね。いちデザイナーの
僕まで刈り出されて参るよ」
「そんな大変な時期に、本当にありがとう」
「コレクションが終わったら来るよ。来月会おう」

 明日のフライトとハイヤーの手配時間をメモした予定表、航空チ
ケットを渡して、穂香はガブリエーレに別れを告げた。

『調子に乗ってしまったよ。ごめんね、ホノカ怒ってる?』
『全然。ギャビィが隆司を気に入ったなら、良いと思う』

 大きな体をすくめる悪戯が見つかった子供みたいな仕草に、憎め
なくて微笑が漏れる。

『僕は過保護過ぎるんだって。だからちょっと放っておくべきなん
だって言われてさ』

 誰に、とはあえて言わず、ガブリエーレは反省した顔で頭を掻い
た。

『そうよ、もう子供じゃ無いんだから。私は大丈夫』

 しっかりと頷いて、背筋を伸ばしてにこっと笑顔を見せた。
少し商品構成の事で聞きたい事があるから残ると言う結女に手を上
げて、穂香は踵を返しエレベーターホールに向かって歩き出した。

 レクタイルホテルを出ると外は真っ暗で、二月の夜気がコート越
しに肌を刺した。
ぶるっと体を震わせて、穂香は白い息を吐きながら夜空を仰いだ。
胸の底から湧き上がるもやもやとした気持ちに不快感を覚えて、ぎ
ゅっと顔をしかめる。
デイタイムとは一変して人通りの全く無いホテル前の庭園は、今の
穂香にはかえって有り難かった。

 自分が今感じている物の正体が何か、ちゃんと判っている。

 たった一回で、ガブリエーレの心をあっさり掴んでしまった隆司。
相手に媚びる事をせずに気儘に振舞って、それさえも自分の魅力に
してしまう。

 自分は、あんな風になれない。

 ガブリエーレが自分を大事にしてくれるのは、彼本人が認めてい
た通り、放っておけないからだ。
保護する対象として見ているだけで、自分を対等の存在と思ってく
れてるからじゃない。

 これは、嫉妬だ。
醜いと分かっていても、どろどろとした嫌な物が、内から内から湧
いて出るのを止められない。

 そこに存在するだけで、他人にある種の感銘を与える人間は存在
する。
畏怖だったり、好意だったり、尊敬だったり、特別な感情を人から
いとも簡単に勝ち得る人間。

 そういう相手を、味方に出来たら幸せだろう。
ライバルとして研鑽し合えるなら、それも素晴らしい。
憎むなら、きっとずっと楽になるだろう。

 どの立場にもなれない私は、どうしたら良いの?

 何年もかけて忘れて、必死で今の自分を作って来たのに。
一つ一つ築き上げて来た自分の中の何かに、隆司はずかずか踏み込
んで来て、それを一瞬で壊してしまった。
あっさりと、自分が望む物を持って行ってしまう隆司に、劣等感を
感じてさえいる。

 隆司が居ると、自分が自分で居られなくなってしまう。
隆司の一挙一動に翻弄されて、どうしたら良いか分からなくなって
しまう。

 いつもの自分だったら、あんな事、絶対に許さなかった。
怒って拒絶して、もう二度としないでとはっきり言うべきだったの
に。
初めてキスされた女の子みたいに固まってしまって、どうしたら良
いか分からなくなって、何度も何度も許してしまった。

 あれから素知らぬふりを装っているけど、本当は、隆司が近くに
来るだけで逃げ出したくなる。
怖くてたまらなくなる。

 はあ、と深いため息を一つついて、穂香は俯きながら帰路を踏み
出した。
四方をライトに照らされたインターロッキング貼りの通路に、パン
プスから伸びた黒い影が落ちている。
下向きの目線で、影を追いかけて踏み進むと、進行方向に出来てい
たもう一つの影に先が重なった。
視線で追った先に黒い革靴を履いた足が見えた所で、穂香の思考は
停止する。

 よりにもよって、今一番会いたく無い相手が目の前に居る。
一足先に出た隆司は、恐らく庭園のベンチに坐って、久しぶりの一
服を点けていたのだろう。

 何でこんな所でぐずぐずしてるのよ、と穂香は心中で毒づいた。
一服したいなら、ちょっと我慢して喫茶店でも入れば良いじゃない
のよ、このヘビースモーカー。

「早いな、もう出て来たのか」

 かかる声に、びく、と肩が震えて、反射的に後ずさる。

 口を開いたら、何を口走るか判らない、嫌だ。

「おい?」

 穂香は後ろにじりじりと下がって、それから相手にくるりと背を
向けて、駆け出した。





「ねえ、ユナ。やっぱりタカシは遠ざけた方が良くないかな」
「まだ言ってるんですか? もう遅いでしょ」

 ガブリエーレは、腕組みをしながら、うろうろと熊みたいに部屋
を回り出した。

「どう考えても、あれではホノカに分が悪いよ。可哀相に、気丈に
振舞っていたけど、タカシにすっかり怯えていたじゃないか」
「それは私も前から気が付いてました。あの二人の空気が何だかお
かしいなって。だからさっき暴露話を聞かされて、やっと納得しま
したけどね」

 全く穂香は水臭いんだから、とその場に居ない友人に不平を漏ら
しながら、結女はサンドウィッチをぱくぱく口に放り込んだ。

「ホノカに叱られるのを覚悟で全部話したんだから、本当にしっか
り見てやってくれよ。頼むよ」

 ガブリエーレは泣きそうな顔で、拝まんばかりに目の前の結女に
懇願した。

「良いですよ、じーっと見てますよ。見てるだけですけど」
「どうしてそんな冷たい事を言うんだ。ホノカが泣いたら可哀相だ
ろう。タカシの間に入ってガードしてやってよ」
「お断りします」

 今度はポテトをむしゃむしゃ食べながら、結女はにべ無い答えを
返した。
ううっ、君は鬼か悪魔か血も涙も無いのか、と大男が情けない声を
上げた。

「さっきも言ったけど、私は過保護は良く無いと思う。ガブちゃん
が穂香に激甘な理由も、やっと判ったけど、そういうのは本人の為
にならないです」
「だって、並大抵の理由じゃ無いんだ。過保護にもなるだろう」

 ううーん、と唸りながら、結女は考え込んで額をぽりぽり掻いた。

「あの人、そういう事する人には見えないけどなあ」
「事実やったんだよ。だからホノカは」
「でも本人に直接聞いた訳じゃ無いでしょ。そういうの、第三者が
手出ししたってこじれるだけですよ。私は、穂香はまだ、仁科さん
の事好きなんじゃ無いかと思う。もしかしたら仁科さんも……」

 そこまで言って、憶測が過ぎると思ったのか、結女は黙り込んだ。
ガブリエーレは大げさな身振りで目を覆って、おぞましそうに手を
払う真似をした。

「駄目駄目。タカシは面白そうな男だけど、僕のホノカにはもっと
良い相手じゃ無いと。あんな性格悪い男じゃ泣くだけだ」
「でも、穂香の気持ちはあの子だけの物です」

 好き云々は、あくまで仮定ですけどね、と結女は続ける。

「もしも又泣く事があっても、その涙も苦しみも、全部穂香だけの
物であるべきです。他の誰も替われないし、見てるだけしか出来ま
せんよ。挫折したら手を差し出してあげれば良いんです」

 ガブリエーレは、ふんぞり返ってジュースをちゅーちゅー吸い込
む一回り以上年下の小娘を、恐ろしい物でも見るように伺った。

「君って、男らしすぎ……」
「そうですか?」

 深く深く切なげなため息を漏らすと、ガブリエールは又。
心配だ心配だ、と呟きながら部屋を徘徊し始めた。





 はあっはあっはあっ。

 レクタイルホテルの庭園は、都会の真ん中のオアシスのごとく、
ぽっかりと出現した広大な敷地を有していた。
穂香は、出口を塞ぐ形で居た隆司と逆方向に、どんどん奥に逃げる。

(今電話しようと思った所なのに、目ざといな)
(隆司なら、どこに居てもすぐに見つけられるもの)

 はあっはあっ。

 ガサガサと、低木を掻き分けて、自分を隠してくれるどこかを捜
して穂香は走る。

(あのね。例えば待ち合わせが、金曜のハチ公前でも、アルタ前で
も。どれだけ沢山人が居たって、隆司が居る所だけ空気が違うから
自然とわかっちゃうの)
(お前、野鳥の会の人?)
(もう! 真面目に言ってるのに。隆司はね)

 ――思い出さないで。

(特別なの。私には、誰より特別な人。だから)

(隆司が居てくれたら、それで良いの)

 次から次へと、胸の奥から溢れ出す交わした言葉の数々。
たまらなくなって、穂香は耳を塞いで木にもたれかかった。

(いつまでじろじろ見てるんだ)
(だって、見たいから)

 ――思い出したくない。

(眠ってる顔、可愛い)
(愛用のエタニティの香り)

(猫っ毛の髪)
(笑う時に優しくなる目)

 ――もう、思い出させないで。

(全部、隆司の)

 ――終わった事なんだから。

(隆司、大好き)

 ――思い出したくない。

(大好き。ずっと、一番好き)

「やめて――――――!」





 緑濃い森を抜けて途切れた所に現れた、小さな湖。
外套から雨の滴をぽたぽた垂らして、疲弊しきった捜索隊。
懐中電灯を持った人達が指し示した先には。

 横たわる、変わり果てた姿の父。

 後で、母と二人、父が一日徘徊した足跡を辿った。
優しい人だから、どこで逝けば良いか迷って迷って、一番迷惑がか
からなそうなあの湖に辿り着いたのか。
たった一人で、あんな寂しい場所で、どんな気持ちで。
どうして、気が付いてあげられなかったのか。

(私が、消えれば良かったのに……!)

 ぎゅっと瞑った目の奥で、信号が何度も点滅して、ぐらりと体が
傾いだ。
喉の奥から苦い液体がせり上がって来る。
穂香はこみあげる吐き気に口を抑えて、木の根元にしゃがみ込んだ。





 誰かが自分を見下ろしている。
黒い葉の茂りから覗く星の瞬きを背に、心配そうな目でこちらを上
から覗き込む、顔。

 ぶれた視界が像を結んで、意識が急激に浮上して来る。
穂香は、自分を隆司が助け起こしてくれている事に気が付いた。

「穂香」

 気遣わしげに、隆司が自分の名前を呼ぶ。
聴くだけで幸せな気持ちになれた、深く響く、柔らかい声。

「おい、大丈夫か」

 ――大好きだった声で、私を呼ばないで。

 乱れて顔に張り付いた髪とこびり付いた泥を、隆司が掌で払い落
としてくれる。
目を閉じてうっとりと受け入れそうになる自分。
  
 ――大好きだった指で、私に触れないで。

 恐れにかられて衝動的に、穂香は手を払い除けた。

「触らないで」

 搾り出した声は、自分の出した物とは思えない程かすれていた。
喉にいがらっぽさを覚えて、穂香はごほごほと咳き込んだ。


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