穂香は交差点の名前を信号機で確認して立ち止まり、携帯に到着
の連絡メールを打ち込んだ。
「待ってろ」とそっけない返信が帰って来る。
穂香はよっこらしょ、と角にある商店の看板に腰を乗せて迎えを待
った。
結女にこう怒られたと言うと、隆司は「当然だろう」と呆れた顔
をした。
「そんな情けない弱音を吐けば、彼女の性格ならそう言うだろう
な」
壁に背をもたせかけて、腕を組んで立っている隆司。
寝室は真っ暗で、ドアを開け放した隣のリビングからの灯りが、間
接証明の様にほんのりと室内を照らしていた。
薬を真面目に飲んで週末一杯寝ていたお陰で、その時の穂香は胃
も熱の方も大分良くなっていた。
最初は丸まっていないとやり過ごせなかった痛みも今は薄らいでい
るので、ベッドに起き上がっていた。
体調が上向くと気分も変わるのか、結女の辛口の説教もすんなり
と納得出来た。
結女はきっと、前に自分が考えたのと同じ様な事を言っているんだ
と思った。
『自分にしか無いプラスアルファ』はどこかにきっとあるから、い
ちいちいじけてないでそれを探せば良いのだろう。
でも。
ちらっと隆司を見る。
穂香に釣られて、腕組みした隆司が面を下に向けたまま、視線だけ
こちらに上げる。
「隆司みたいな人が近くに居ると困っちゃうの」
気後れしちゃって……とごにょごにょと、最後の方は小声になっ
てしまった。
ここまで恥を掻いたついでに言ってしまおうと思うけど、余り大き
な声では言いにくい。
「俺?」
隆司が眉をひそめて自分を指差した。
「俺が何をした。いや、確かに色々……」
そこまで言いかけてやめて、隆司は横を向いて、手で口を覆って
一撫でした。
その下から、あれはちゃんとやめただろ、とくぐもった声で小さな
呟きが聞こえた。
(もう。誤解しないでよ。そっちじゃ無いのに……)
俯いて穂香は、何回も許してしまった時の、隆司の情熱的な奪う
ようなキスを思い出して、頬が熱くなるのを感じた。
あれから隆司が一度もそういう素振りを見せた事は無いけれど。
自分が逃げようとするのに、離れるたびに何度も何度も、頬を包
んだ手で引き戻して。
上から被さって来て髪に手を差し入れて、上半身を腕で抱いて押さ
えつけて来た。
顔を斜めに傾けて、息も苦しくなる程に強く唇を押し当てて、貪る
みたいなキスを繰り返した。
最初は胸を押し返して逃げていた自分も、気が付いたら我を忘れて
夢中で唇を開いて受け入れてしまっていた……。
思い出した途端に、意識してしまう。
努めて忘れるようにしていたけれど、四畳程度の、ベッドを置いた
狭い寝室に深夜に二人っきりだという事実に改めて息苦しさを覚え
る。
ネクタイもボタンも外して、少し髪が乱れた無造作な姿がセクシ
ャルで、何故か情事の後を連想させる。
袖を捲くり上げた逞しい腕、綺麗な筋肉の付いた硬い胸、細く引き
締まった腰。
その下の、かつては何度も重ね合わせた浅黒い肌のリアルな感触が、
ありありと脳裏に蘇った。
「俺が何だよ」
気が付いたら、隆司が真近に立って見下ろしていた。
自分の沈黙を隆司はどう受け止めただろうと、穂香は更に顔がかっ
と熱くほてってしまって、慌てて顔を逸らした。
「言いかけてやめるな」
「そ……そうやって上から威圧するのってずるいと思うわ」
「いつ威圧した」
「してるわよ。都合が悪くなると上から睨むじゃない。私にはそれ
だけでプレッシャーなの」
都合が悪いのは自分の方だ。
苦し紛れに言いがかりを付けているのは、自分だ。
――結女の馬鹿。
心の中で、穂香は友人に悪態を付いた。
(何考えてるの。どうして隆司を呼ぶのよ)
頭の後ろで隆司の動く気配がした。
それから、床にどさっと座り込む音。
「これで文句無いだろう」
「……」
「こっちを向け」
おずおずと振り返りかけて、ベッドサイドに胡坐をかいた隆司と
目が合ってしまった。
今度は下の目線から、隆司が自分を見上げている。
これも案外プレッシャーなのだと、隆司目線の気持ちがちょっと
判った気がする。
自分が隆司を睨みつけている時、こんな風に見えているのだろうか。
ボタンを外して大きく開いた襟元から、剥き出しの隆起した喉と
胸が覗いていて、それが呼吸に合わせて上下するのがひどく艶めか
しい。
乱れた姿の隆司は男の人なのに色っぽいという表現がぴったりで、
とてもじゃないけど正視出来ない。
匂い立つ大人の男の色香に、眩暈がしそうだった。
――今、抱き締められて、求められたら。
きっと逆らえない。
それどころか、自分から積極的に受け入れてしまいそう。
(私って、いやらしい女なのかも……)
隆司は病気の自分を見舞って来てくれているのに。
何変な事考えてるの。
「お前な。とっとと言わないと押し倒すぞ」
お馴染みの口調で隆司が、冗談めかして穂香を突付いた。。
穂香はいつもみたいに撥ね付けて気軽に言い返す事が出来ずに、困
った顔で隆司をちらっと見てから目を伏せた。
隆司が息を呑む気配。
奇妙な沈黙が、お互いの間に訪れる。
それは連帯を感覚として伴っていると、お互いが肌で感じていた。
ごく、と唾を飲み込んだ音が、穂香の耳でやけに大きく反響した。
隆司に聞こえてしまったかもしれないと、穂香は恥ずかしくなって
息を潜める。
探るように腕を上げて、隆司の指が、穂香の頬に触れるか触れな
いかの所で止まった。
ひんやりとして、乾いた隆司の指。
開いた四本の指が、頬をゆっくりと滑って、穂香の下唇を柔らか
くなぞった。
目を伏せたまま、穂香は固まって動けない。
何かを期待する気持ちと、それを止めようと叫ぶ気持ちとが自分の
中でせめぎあってぐちゃぐちゃになっていて、どうしたら良いかわ
からなかった。
心持ち開かれた隆司の清潔そうな唇に、目が吸い寄せられて離せ
ない。
あの唇にもう一回触れて欲しい、抱き締められたいと待ち望む欲求
が、激しく胸の内に沸き起こった。
息苦しさに耐えかねて、穂香は目を閉じて短く喘いだ。
ぴくり、と、唇をなぞっていた隆司の指が動きを止めた。
くそ、と隆司が小さく呻く声。
そのままその指が、穂香の額を強めにこづいた。
「何寝惚けてるんだ馬鹿」
「いたいっ」
穂香が額を押さえて抗議の声を上げた。
その瞬間に時間が再びスムーズに流れ出したように、穂香には思わ
れた。
「何するのよ」
「お前が引っ張るからだろ。さては本当に押し倒して」
「違うわよエロおやじ」
頭を押さえたままむうっと睨むと、隆司は穂香を真っ直ぐに見返
す。
「言いたい事があるなら何だって聞いてやる。我慢して倒れられる
位なら、ぽんぽん言われた方がましだ」
真剣な声の調子に、決意して穂香は言葉を次ぐ。
「……だから、隆司が」
「うん?」
隆司は、何でも出来て、人の心も簡単に掴んでしまって。
仕事でも、どんな事でも、周囲をあっさりと追い抜いてしまう。
側に居られるだけで圧倒されてしまって、劣等感を抱いてしまう。
「隆司みたいに完璧で強い人を見てると、みじめになるの。人間と
して、完全に負けてしまってるって思うと、羨ましくて悔しい。
そういうのも、ストレスだった」
そんな隆司だから、きっと自分みたいな小さい存在は視界に入ら
ない。
とこれだけは心の中で、隆司に。
隆司は黙って聞いていた。
困惑を隠し切れない表情で、参ったな、と隆司は呟く。
それから片手で口を覆って、ふー、と長い息を吐いた。
「お前がそんな事を考えていたなんて。俺にはそんなつもりは無か
った」
「私が勝手にそう思ってるだけだから、気にしないで」
全部口にしてしまってから、やっぱりやめておけば良かった、と
穂香は後悔した。
きっと、馬鹿な奴だって怒られて呆れられる。
「本当に、気にしないで。隆司の責任じゃないから。隆司は、周り
の事を気にかけるような人じゃ無いでしょ。忘れて」
慌てて早口でまくし立てて、穂香ははっと胸を突かれて固まった。
むっと口を引き結んで、一見腹を立てたかに見える隆司。
隣のリビングからこぼれる灯りにぼんやりと顔を照らされた隆司の
目には、確かに一瞬傷ついたような光が宿った。
ふいっと顔を背ける隆司に、穂香は確信した。
――今。
私、隆司に無神経な事言った。
多分、傷つけた。
「ごめんなさい」
自分の幼稚さに自己嫌悪に陥って、謝る言葉が口をついて出る。
「謝るな。俺はお前の言う通りの人間だ」
「言葉が過ぎたわ」
「いい。本当なんだから。俺は自分の事しか考えて無い」
視線を外したまま、隆司は、しばし沈黙した。
「俺は。……お前が誤解しているような、完璧な人間じゃない。そ
れでお前の気が済むなら、教えてやる」
そんな奴がいたらお目にかかりたい位だと、隆司は皮肉に顔を歪
めた。
いわゆる私生活と言う物、人間関係と言う物、どれも苦痛だった。
家に帰れば猛烈な倦怠感が自分を襲う。
どうでも良い人間との、浅い適当な触れ合い。
嫌悪を押し隠しての、演出された自分。
すべてが鬱陶しかった。
だから何もかも忘れて、休日も仕事に没頭した。
砂の城みたいに虚しく掴めない毎日の中で、それだけが存在感を放
って自分を誘った。
没頭すればするほど、自分の評価は上がった。
それが更に、己を沈鬱にさせた。
自宅にも帰れず、一層外での自分を作る事に専念した。
その悪循環を絶つ事が出来なかった。
只の仕事人間なら、まだ良かった。
それなら救いもあった。
ある日、ワーカホリックと言う言葉を知った。
ワーカホリック――すなわち仕事中毒。
嗜癖の一種で、仕事に依存する精神のひずみ。
機能不全家庭で、支配されて育った子供が長じて陥りやすいのが依
存症。
異常な責任感、自分以外の存在に対する苛立ち、他人と親密になれ
ない、楽しむ事を知らない、親に叩かれて育った子供。
自分に当てはまる符号の多さに、腹を抱えて大笑いした。
ある依存症患者は、他に依存がシフトする事がある。
なるほど、仕事以外の時間に不特定多数の女を無性に求めるのは、
セックス依存症と言う奴か。
心の傷に引きずられている事を素直に認めるには、余りにプライ
ドが高すぎた。
自分が小さな子供みたいに、何かに寄りかかっていないと生きてい
けない人間なんだと、それを誰かに知られるのは耐えがたかった。
その事を、ずっと抱えて生きて来た。