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第九章 足らざるを知る 3

 しばし、隆司は手を合わせて黙した。
それから顔を上げて、丘陵の中腹から周囲を見渡した。

 背後には手付かずの自然の山がそびえている。
菩提寺の墓地は、麓の丘を全部利用しているらしく、その時代に合
わせて無軌道に丘全体に広がっている。
端の方では朽ちかけた無縁仏が点在して、伸び放題の草の中に埋も
れていた。

 裾野には畑、その向こうには、コンクリートも真新しい舗装され
た国道が東西に延びている。
国道には首都圏でも見慣れたホームセンターやスーパーマーケット
の支店の看板が点々と見える。

「ここは、田舎でしょう。都会から来られたら驚きますでしょ」

 背後から声を掛けられて、いえ、と隆司は首を振った。

「いい所ですね。穏やかな」

 心からそう言った。
自然が近代の利便さと程好く融合しているけれど、完全に壊されて
はいない。
押し付けがましくない好感が持てる開発を施された、人間性の温か
い土地なのだろうと感じた。

「うふふ。ここに居ると、毎日がのんびりするんですよ。あの子は
遠いって文句を言いますけれど」

 柚木未亡人は、そう言って笑った。
穂香にとても似ている。
穂香が年齢を重ねたらこうなるだろうと思わせる、おっとりとした、
可愛らしい女性だ。

「遠くから来て頂いたのに。あの子ったらすみません」
「いえ、無理も無い事です」

 母親は都合が悪いらしいと言葉を濁したが、そうでは無いのだろ
うと大体の予測は付いた。

「僕こそ、こちらに伺うのが遅くなって申し訳ありませんでした」
「何度も申し上げた様に、夫の事は仁科さんには何の関係も無い事
です。本当に、あの子が何言ったのか知らないけれど、そうなんで
すよ」

 隆司は小さく微笑して、答えなかった。
穂香の父親が眠る土地を見て、穂香の母親に会ってみたかった。
それで何がどうなるというのでも無いのだが、単にそうしてみたか
ったのだ。

「あの子は父親に可愛がられて、我儘放題で育った子ですから。ご
迷惑掛けているでしょう」
「いえ、そんな事は」
「そうに決まってます。穂香はこうと決めたら親の言う事なんてち
っとも聞かないんですよ。強情な子で、それで父親とは喧嘩ばかり
していました」

 強情……は確かにそうかもしれない。
ああ見えて、自分が決めた事はてこでも譲らないんだ、あいつは。

「人様に申し上げるのもお恥ずかしいですけれど。夫は仕事の事で
悩んでいました。その他にも色々と苦悩していたのでしょうね。穂
香とも、最後は毎日喧嘩していて。本当なら、後で笑って済ませら
れる筈の親子喧嘩でした。夫が自殺さえしなければ。あの子は最後
に父親に少しひどい事を言ったのね、だからあの子は、自分の責任
だと思い込んでしまったのね」

 こらえ症の無い父親ですねえ、と柚木未亡人は墓石を睨んだ。

 ケケケッ、とツグミが鳴き声を上げながら飛び立った。
バサバサバサと羽ばたく音が余韻を残して遠ざかる。

 初老の夫人は、隆司に向き直った。

「そりゃ、最初はあなたにも腹が立ったのよ。どこのどいつだーっ
てね」
「すみません」
「だけどね、私はちゃんと言っておきなさいって言ったのに、あの
子が黙ってるってあの時に自分で決めたの。それを七年も経って未
だにぐじぐじと言っているのね。もう大人になって良いのに、仕方
の無い子ねえ」

 答えられず、隆司は微妙な合いの手を打って誤魔化した。
そこでそうですね、とは言えない。

「あのね、子供は振り返る必要は無いんです。勝手に先を歩けば良
いのに、あの子にはそれが出来なかったのね。そんな事、親は望ん
で無いんですよ。よそのお子さんにだってそうよ。……あらやだ、
あなたの事言ってるのよ」
「え? ……ああ」

(よそのお子さんって俺のことか)

 この年になってお子さん呼ばわりをされるのはどうも居心地が悪
い。
隆司がどう反応した物かと戸惑って見下ろすと、母親はふくよかな
手でぽんと背中を一叩きした。

「あなただっておばさんから見たら、まだまだ子供ですよ。これか
らの子じゃないの」

 隆司は苦笑して頷いた。
何と言うか、一見のんびりしているが、芯の通ったしっかりした女
性だ。

 年輪だろうか。
年を経て経験を積んで得たものが、ちょっとした言葉一つに重みを
感じさせて、自然と頭を垂れさせるのだろうか。

 小手先の言葉や付け焼刃の知識だけでは出せない年長者の柔らか
い威厳を、にこやかに笑う小柄な婦人から感じる。

(敵わないな、子供扱いか)

 人生六十年としても、残り三十年。
結論を急ぐにはまだ早いのに、何もかも一人で収めようと焦る必要
は無かったのかもしれない。

 きっちりとコントロールして、常に完璧な結果を出すことにこだ
わり続けて来た。
リスクは冒さない、効率の悪い事はしない。
評価を出すにはそれが手っ取り早かったから。

 青二才の出来る事など、たかが知れていると言うのに。
上を見すぎて、忘れていた。

 婦人が、こういう良い天気の日は気持ちがいいですねえ、とにこ
にこ笑って隆司の横に並んだ。

「毎日お天気だったら、いいことばかり起きるわね」

 皺を刻んだ柔らかい顔をした老婦人。
きっとこの女性は、何が起きても天気の良い日はこうして笑えるの
だろう。
そうして柳のようにしなやかに、娘を育てて来たのだろうか。





 穂香と会おうか。
完璧な答えを出せなくても構わない。

 この陽気のせいだろうか。
それとも、ふくよかな婦人の呑気な口調に影響されたのだろうか。
隆司は自分でも驚くほどに簡単に、それを決める。
 高速に乗れば夜までには東京に戻れるだろうと、時計を見て確認
する。

 ――確かな物など、元より自分には無かったのだから。





「煎餅でもタオルでも、何でもいいんじゃないの」

『男の人だから迷うわよね。 額が判るけど、商品券がいいかしら
ねえ。ご丁寧にお包みと和菓子とお花まで頂いたから。とらやの羊
羹とドラ焼き頂いたのよ。おばあちゃん好きでしょう。喜んでねえ。
お礼状も書かないとね。お母さん送っておくけど、あんたもお礼言
いなさいよ。ほんとにもう、恥ずかしかったわよ』

「はいはい、すいませんねー」

『何ですかその口の利き方は。お母さん明日デパート行くから、一
緒に考えてよ』

「はいはいはいはい。そっちで決めていいから、じゃあね」

 おざなりに返事をして、まだ何か声が聞こえる受話器を置いて、
もう、と不貞腐れる穂香。

(何でいっつもどうでもいい話ばっかりするのよ)

 呑気と言うか、マイペースと言うか。
母親を見ていると、真剣に悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。
昨日の今日で、スーパーで買うのがいいのか開口一番に聞かれた
って調子が狂って困る。

(おばさん丸出しよね)

 幸い二日酔いは免れたので、昼は結女と近くのカフェでランチを
して、夕方帰宅をした。
母親は帰れと五月蝿かったけれど、自分には関係無い。
隆司がやる事にいちいち振り回されるのは、もう沢山だった。

 電話が再び鳴り出した。
まだするか! と苛々しながら、穂香は受話器を取り上げた。

「しつこいわね。商品券でいいわよ」

『商品券?』

 怪訝そうな低い声の向こうで、ざーざーと拡散した雑音が入って
聞きづらい。
それでも、母親と間違えた相手が誰なのかは判る。
穂香は自分の迂闊さに今頃気が付いた。
携帯だけでなく、自宅の電話も着信拒否にしておくべきだった。

「何か御用? 私には用は有りませんけど」

『会いたい』

 たった一言、その言葉で、穂香は口に上せかけた憎まれ口を封じ
られて押し黙る。
何回か隆司から電話があった時は、あっちが言葉に迷ってる隙に文
句を言ってさっさと切れたのに。

『もう少しで着く』

(何勝手に決めてるのよ)

「私は会いたくありません。隆司なんて大嫌い顔も見たくないって
言ったでしょ。来ても無駄だから。絶対出ないから」

 一気にまくしたてて、相手の反応を伺う。
ここまで言ったらきっと引くに違いない。

『わかった、それじゃあ』

 そこで隆司の声が小さく震える。
もしかして言い過ぎたかしら、と少し後悔しかけて、すぐにその後
悔を後悔する。

『お前が出て来ないなら、ドアの前で熊みたいにウロウロしてやろ
うかな』

「ええ!?」

『じゃなければ、哀れな顔して座り込んでやる。周りはきっと何事
かと思うな。あの人どうしたのかしら、柚木さんったら入れてあげ
たらいいのにね可哀相、とひそひそとご近所の噂の的に』

「やめてよ恥ずかしい」

『嫌なら出て来い。本当にやるからな』

 隆司がくっくっと電話の向こうで笑い声を押し殺している気配が
する。
一瞬でも同情しそうになった自分が馬鹿みたいだ。
人があれだけ真剣に怒ったというのに、どうしてこんなに何事も無
かったみたいにふざけた態度が取れるのだろう。

(懲りない人ね)

 何も言わずに受話器を叩きつけて、少し迷ってバッグを掴んで、
穂香は慌てて玄関から飛び出した。

 電話の向こうの雑音は、きっと運転しながら掛けていたせい。
もしかして、実家からの帰り道なのかもしれない。

 エレベーターの呼び出しボタンを無駄と知りつつ連打しながら、
じりじりと足踏みする。
隆司が着く前に逃げるつもりだった。
何回か電話して来た時は、穂香が怒るとおとなしく引き下がったの
に、今日は様子が違うみたいだ。

 仕事の節目で顔を合わせる羽目になるのは分かってる。
必要な時は、ちゃんと応対出来ると思う。
でも、今は会いたく無い。
自分で自分が分からないのに、二人っきりで隆司に会うのは嫌だ。

 エレベーターのドアが開くのと同時に飛び出そうとして、うっと
詰まって穂香は立ち止まった。

「騙したわね」
「どうせ逃げるんだろうと思って、ここで掛けた。もう少しで着く
には違いないから嘘は付いてない」

 ドアを足で押さえて進行方向を塞ぐ隆司を、穂香はきっと睨んだ。
折った携帯を唇に当てて、憎たらしい位いつも通りの、してやった
りと言いたげな隆司。

 雑音は、きっとマンションの前の往来の気配だったのだろう。
それを運転中だと自分が早合点したのは確かだ。
考えてみたら、隆司は運転中には電話をマナーモードにしていた気
がする。

 しかも更に考えてみたら飛び出さなくても良かったのに。
動揺してまんまと誘い出されてしまった。

(もー、悔しいー!)

 狭いエレベーターにはどこにも逃げ場は無い。
ちらっと天井を見る。
スパイ映画なら上から脱出出来るけど、と無意味な想像を働かせて
みるけど、それは不可能。

 唇を噛んで、眉間に皺を寄せて壁の方を向く穂香。
隆司は閉まろうとするドアを手で押さえながら、穂香を覗き込んだ。

「話くらい、させてくれ」
「……」

(絶対嫌)

 唇を一層強く噛み締めて無言で意思表示をする穂香に、隆司はや
れやれ、とため息をついた。

「わかった。じゃあ、強硬手段に訴える。一、担ぎ上げて攫う、二
担ぎ上げて攫う、三、担ぎ上げて」
「わかったわよ、話をすればいいんでしょ」

 有無を言わせぬ脅迫に、穂香が慌てて口を開いた。
卑怯者、と小さく抗議すると、隆司は聞こえないふりをして道を空
けた。

「信じられない。嫌だって言ってるのに」
「こうでもしないと口を利いてくれないだろう」
「当たり前でしょ。私、すっごく怒ってるのよ。今も怒ってるの、
隆司の顔見てるだけで腹が立つの。……何笑ってるの」

 エレベーターホールで立ち止まってきっと振り返ったら、隆司は
何故か片手で口を押さえて笑っていた。

「さっきから、どうしてそんなに楽しそうなのよ。私何か可笑し
い?」
「いや」
「じゃあ笑うの止めてよね。馬鹿にされてるみたい。私、本当に本
当に怒ってるのよ。真剣なんだからふざけないで」
「分かってる、悪かった」

 隆司が両手を万歳の形に挙げて、真面目な顔を作った。
もう一回睨んでから通りすがりにポストを覗くと、背後で抑えた息
を吐き出すのが耳に入って、穂香は今度こそ本気で腹を立てて振り
返った。

「隆司! ふざけてたら帰るわよ」
「悪い、本当に馬鹿にしてるんじゃ無いから」
「なら何よ」
「穂香が可愛いから」

 穂香は一瞬硬直して、どんな顔で受け止めた物かと困って、ぴく
っと微妙に眉を寄せる。

「電話するまではこれでも結構深刻だったんだ。でもお前の怒った
声が可愛くて、つい笑えた」
「や、やっぱり馬鹿にしてるじゃないの」
「してない」

 すうっと今度は本当の真顔になって、隆司。

「泣かれるより怒られてる方がずっといい」

 穂香は真っ赤になって何度か瞬きして、それから目を横に流して
一生懸命しかめつらしい顔を作る。
隆司は目をほんのりと和らげて、頭にぽんと手を置いた。

「さて。何か喰うか?」
「……そうやって、餌を与えてればご機嫌取れると思ってるのも嫌
だから」

 隆司が拳を口に当ててくくっと笑って、本当の事だろ、と憎たら
しい言葉を残して先に歩き出した。


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